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松右衛門ゆかりの地

択捉島に船着場を建設

天明4年、松平越中守定信が老中に任ぜられると、北方の千島、東蝦夷の警備に力を入れるようになりました。そして蝦夷地との交易を盛んにするため、択捉島に大きな船の停泊できる波止場を建設するよう、その工事担当者を探させたのです。その結果、大坂町奉行を通じて兵庫の津一の廻船問屋北風荘右衛門の推薦により、当時の宮本松右衛門に白羽の矢が立ちました。

そこで幕府は松右衛門を江戸に招いて直接択捉(恵登呂府)に港(船着場)を建設することを命じました。松右衛門は1790年(寛政2年)5月、持ち船の八幡丸に幕府の吏員を20名や工事作業員、さらには工事用の器具、用具を乗せて択捉島の有萌湾に向かいました。そして島に上陸し、紗那・有萌川の河口に適当な波止場建設場所を見つけました。そして湾底にある大きな石の除去に取り掛かりました。

現在の択捉島有萌湾の姿 写真現在の択捉島有萌湾の姿
(2008年ビザ無渡航で撮影)

北方領土と択捉島 写真北方領土と択捉島
 

しかし厳しい北方の島の冬は早く訪れ、極寒の烈しさは工事の進捗を不可能ならしめたため、その年の10月、一旦は帰航しました。幕府は、その労を慰め、取りあえずは金参拾両を松右衛門に与えた、という文書が残っています。翌年寛政3年3月、再び択捉島に渡って工事を継続、それ以後4年間渡航を重ねて船着き場の建設に努め、ついに1795年(寛政7年)、択捉島に船着き場(波止場)を完成させました。

こうした功労により、1802年(享和2年)、松右衛門の功績を賞して幕府から「工楽(工《たくみ》を楽しみ、そして工事を楽しむの意)」の姓を与えられました。

現在の択捉島有萌湾 有萌川の河口 写真現在の択捉島有萌湾 有萌川の河口
(北海道根室支所より提供)

函館に港(ドック)を築造

1800年代はじめ、江戸幕府はロシアの南下に伴う国防上の問題や、千島諸島や東蝦夷地などの警備に備えるため、最上徳内などに命じて蝦夷地の探検、巡視を命じました。蝦夷地の領有を進め、積極的な交易を進めるため、航路の開発、整備が急務となっていたのです。蝦夷地は松前藩により支配されていましたが、享和2年に幕府は、箱館に奉行所をおいて直轄地としました。

箱館(函館)は、北海道と江戸となど、他の地方の港との交易において松前藩の中でも松前、江差と並ぶ良港として特に昆布の産出する季節には大いに繁盛していました。それにより、交易船や幕府の御用船の修理をする港の建築も急務となっていたのです。しかし箱館には造船場がなく破損、難破船の修理は南の南部や、津軽にまで行かねばならず、さらに小船の往来に便利な掘割もなかったので、享和から文化元年ごろに寄州を埋め立て、掘割を通して造船場を作って船の修繕や新造船を作るよう、御用係からのお達しが出ました。

これについて、安政4年に淡斎如水が記した「箱舘夜話草」の『築嶋』によると、この造船場の作業について以下のように書かれています。「俗にこれを高田屋嘉兵衛というものの築りたりといふは誤りなり。水按に、この嶋を築きし時に、高田屋嘉兵衛は兵庫の松右衛門といふものをつれ来てこれを築かしめたといふ」と。

箱館真景絵図 文久2年(1862年) 写真箱館真景絵図 文久2年(1862年)
函館中央図書館蔵

権威ある岩波書店発行の土木学会編『明治以前日本土木史』によると、「寛政11年箱館築島船渠(船たで場のこと)の築造に当たり、彼はこれを担任し、印南郡石の宝殿山に産する耐火石を彼の持ち船に積み、箱館に渡航し、船渠築造に使用し文化元年竣成せり。時に年62歳なり。」と書かれています。松右衛門はその造船場の建築に自分の財を費やして、箱館にドック、つまり船たで場を作ったのでした。船たで場とは、船底を虫に食われ、その虫によって腐朽するのを防ぐために船を浜に引き上げてそこを焼く場所(広辞苑による)のことですが、そのたで場に、耐火性に強い高砂の“石の宝殿”に産出する“竜山石”を運んで使用しました。

その後松右衛門は、択捉開発や蝦夷地交易に使ったこの箱館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲ることになります。

箱館真景絵図 慶応4年(1868年) 写真箱館真景絵図 慶応4年(1868年)
函館中央図書館蔵

工樂松右衛門と
広島県鞆の浦の改修工事

山陽新幹線の福山駅からバスに乗って約30分、瀬戸内海に突き出た沼隈半島の先端部にある鞆の浦は、古代より潮待ち、風待ちの港として万葉集にも詠まれた要港でした。

江戸時代になって朝鮮通信使の一行が再三寄港し、その景観を「日東第一形勝」とたたえたことでも有名で、藩客接待の海駅でありました。

現在の鞆港 写真<現在の鞆港>
左端に常夜灯が映っている。
港の向こうに見える防波堤が松右衛門の造った波止

松右衛門が築いた船番所波止 写真松右衛門が築いた船番所波止

また江戸時代に、北前船の寄港地となった鞆の浦は、波浪による損壊が進み、工樂松右衛門が福山藩主の懇請により1811年(文化8年)、68才(2年後に歿)の時に、船番所波止の修築と延長工事を実施しています。このとき描かれた図面には、後に造られる波止も既に加えられており、松右衛門は鞆の港全体のマスタープランを念頭において工事にあたったことがうかがわれます。

松右衛門と同世代である備後の文人菅茶人は、「鞆浦石塘記」のなかで、松右衛門のこの業績を讃えており、その鞆の浦の波止は、今なお港を守り続け、往時の景観を保っています。

多くの船で賑わう明治初期の鞆港 写真出典:雑誌「港湾」 昭和3年(1928)11月号

多くの船で賑わう明治初期の鞆港 写真多くの船で賑わう明治初期の鞆港

宇和島藩奥浦間口堀切改修

宇和島藩が編纂した藩政記録によると、法華津浦庄屋新蔵人に対して領主が不届きの科代(罰金)として奥浦半島の付け根部分で南の宇和島湊から北の法華津湾に抜けられる運河の開削を命じたが、後にその運河が多くの岩石や潮の干満による土砂の堆積などによって干潮時の航行が不可能になっていました。そこで宇和島藩大浦の清家丈左衛門から川底の岩石の除去方法について、港湾普請ですでに豊前小倉藩伊田川の岩石除去などで名前が知られていた工樂松右衛門に、岩石破砕(瀬割りの方法)についての指導、伝授を依頼されて宇和島藩の御用を請け負っています。(松田裕之著『近世海事の革新者 工樂松右衛門伝―公益に尽くした七〇年』252頁)

現在の宇和島市吉田町奥浦にある、奥浦半島の付け根部分にある奥南運河のことです。

工樂家文書には、この奥浦間口堀切の改修に関する宇和島藩からの書状は3通あり、うち2通は宇和島大浦の庄屋とおぼしき清家丈左衛門からのものと、あと一通は宇和島藩士小波軍平からの運河開削に関する道具類の取り揃えを依頼してきた文書が残っています。

宇和島市奥南運河 写真宇和島市奥南運河 宇和島湊を望む

現在の奥南橋 写真現在の奥南運河にかかる奥南橋

奥浦堀開削道具の取り揃え依頼状 写真宇和島藩士小波軍平からの奥浦堀開削道具の取り揃え依頼状
(髙砂市教育委員会発行「工樂家文書調査報告書」翻刻より)

石見国大浦湊の波止建設に松右衛門の技術が役立つ

江戸時代、大浦湊は幕府領にあって、特に西廻り航路の中継地として浜田の外ノ浦と共に重要な湊であった。また地元の年貢米などを大阪に送る積み出し湊でもあった。
しかしこの大浦湊は西方向が外海に直接大きく開き、西からの風や波浪に対して非常に弱かったので、西風や大きな波浪を防ぐ防波堤の備えが強く望まれていた。そこで1840年(天保11年)、大浦の人々の願いにより防波堤修築の工事が始まり2年後に完成。
その工事には松右衛門の土木工事技術が応用され、特に福山藩鞆の浦の防波堤修築において使われた石積み技法が生かされたり、またその修築技術を習得した人々が携わった可能性もある、と島根県立古代出雲歴史博物館の中安恵一専門学芸員は指摘されている。

この工事に際して、実際工樂松右衛門が考案・工夫した土木工作船である「石釣船」や「轆轤(ろくろ)船」が使用された、とも指摘されている。

この波止修築事業については、この大浦湊の領主・大森代官の承認をえた大浦湊の関係者が、高砂の工樂家を訪問して「高砂工樂松右衛門へ祝儀」と書かれた『天保五午年より同八酉年迄波止目論見中入用勘定帳』(島根大学付属図書館所蔵)に記されている。天保五年ということは、二代目工樂松右衛門の頃であるが、初代松右衛門がなくなる一年前に福山藩鞆の浦の波止修築を行った時の技術が、こうして大浦湊の修築生かされた、ということを示している。

松右衛門の残した湊の防波堤が残っているのは、高砂、鞆の浦とともに貴重だ。

大浦湊(島根県太田市五十猛町)西方面

大浦湊 波止より東を望む

大浦湊の波止石積み

大浦湊の波止石積み

(松右衛門の技術が応用された?)