工樂松右衛門公式サイト開設の趣旨 工樂松右衛門

「松右衛門帆」と称するバッグ、鞄の製造、販売を行っている特定団体の事業は高砂市の委託事業であって、工楽家とは全く関係ありません。工樂松右衛門という名前、そして松右衛門が兵庫津で名を成していた廻船問屋の株仲間である御影屋から頼まれて家督を継いだ「御影屋」という由緒ある名前を、その所以も知らず当事者と何らの相談、同意を得ることなく自らの商業目的のために利用し、高砂市が特定団体に委託して運営している帆布のバッグや鞄の製造販売は、工樂松右衛門やその松右衛門を先祖としている工樂家とは無関係の事業です。この特定団体はまた、わざわざ「松右衛門帆」という商標登録を取って、いかにもこの団体(設立平成23年)が、1785年に松右衛門が創製して以来232年間ずっとバッグを製造販売していたかのような誤認を消費者に与えて事業を行っていることに、重大な疑問を抱いています。

工樂松右衛門の業績、功績に関するジャーナル記事、研究成果、書物が、近年ありがたいことに次々と掲載、発表されてきています。しかし活字となった真面目な、史実を正確に辿って発表された勉強熱心な方々の成果ばかりでなく、他方で工楽松右衛門の名前を使用して、単に商業目的で利用されることが目立つようになってきていることに対し、工樂松右衛門の業績と人となりを正しく理解していただくために開設したサイトです。

松右衛門帆の誕生

江戸時代から明治の半ばころまでの和船には、松右衛門帆と称される帆が使用されていましたが、それは工樂松右衛門が創製した厚手でありながら、扱いやすい帆のことです。その高性能の松右衛門帆は急速に全国に広がり、近世以降の日本海運の発展に大きく貢献しました。

その工樂松右衛門とは、江戸後期寛保三年(1743年)、船乗りの家に兵庫県高砂で生まれました。15歳のころに兵庫(現在の神戸)に出て、御影屋という船主のもとで船乗りとして働きました。松右衛門のあふれる才知は、帆船の操舵法等、回船問屋の仕事、商いの方法を御影屋の主人から良く習得し、その習熟の早さと正確さから、兵庫津における船頭仲間の間でいち早くその才知をとどろかせたと言われています。後に、その奉公していた兵庫津でも由緒のある廻船問屋の株仲間、御影屋藤兵衛から見込まれて家督を譲り受け、御影屋松右衛門として廻船問屋の仲間入りができました。

松右衛門帆 写真
神戸大学海事博物館蔵「松右衛門帆」

その松右衛門の、大きな業績の一つに、松右衛門帆の開発、創製があります。それまで使用されていた船の帆の脆弱性に心を痛め、丈夫で扱いやすい帆の工夫に意を注いでいましたが、天明五年(1786年)四月、ついに一種独特の帆布の製作に成功しました。

松右衛門帆の評価と普及

松右衛門がこの新しい帆布の開発に彼の工夫の才を傾注、努力したことは間違いありません。その成功と使い良さを伝え聞いた当時の船頭仲間達は、これを「松右衛門帆」と称して、喜んで使うようになりました。しかし松右衛門は、自ら苦労して創製した帆布、松右衛門帆の綿布の製法を独り占めすることなく、広く船頭や船主仲間に伝承しました。

また兵庫の北風家の一統である喜多二平の熱心な宣伝販売活動によって全国に広がり、評判が鳴り響きました。北海道との物資の輸送に大きな役割を果たした北前船はもちろんのこと、はるか北関東と江戸との物資の運搬に不可欠であった利根川の高瀬舟の帆にも普及するほどの、素晴らしい発明でありました。
その高瀬舟で使用されていた松右衛門帆(その地方では「マツイム」と呼ばれていたそうです)は、非常にまれですが現在でもそのままの姿で実在、保存されています。

松右衛門帆 写真
神戸大学海事博物館「北前船模型」

松右衛門帆 写真
加賀市 北前船の里資料館蔵

松右衛門自身が、松右衛門帆の生産販売にどの程度直接携わっていたかどうか確かではありません。しかし松右衛門は、喜多二平とともにさらに改良を加えて大量生産のための織機の工夫にも取り組んだと言われています。こうした帆布は当時木綿の布を織る織機があれば何処ででも製作が出来るため、発明した新製法を惜しむ事なく指導しました。今日良くあるように製法の「特許」を取ったり「商標」を登録するなどしてその製造、販売を独り占めするようなことは一切しませんでした。むしろ、同じ船持ち仲間が自由に製造して、安全な航海のために広く使用され、役立つことを喜びました。

松右衛門のその後の活躍

松右衛門帆を創製した後は、金比羅宮の建設に使用するために秋田からの木材の輸送をしばしば助け、また築港工事などにもその技術力、才能を発揮し、江戸幕府の命により力を尽くしました。60歳を過ぎていた松右衛門は、さらに高砂の「石の宝殿」産出の石材が耐火性に強いことに注目して、その石材を使用して北海道の函館に船焚場(ドック)を自費で建造したり、また私財を投じて故郷高砂港の修築を行いました。

松右衛門のこうした「私」を殺して「公」に尽くす態度は、江戸時代の農学者大蔵永常がその著「農具便利論」で記しています。「此の人常にいへらく、・・・(略)・・・凡其利を窮るになどか発明せざらん事のあるべきやは・・・其志ざす所無欲にして皆後人のためなる事をのみ生涯心を用いたりき。」