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工樂松右衛門とは その功績

工樂松右衛門は江戸時代の半ば、徳川吉宗の時代寛保三年(1743年)、兵庫県高砂で船乗り宮本松右衛門の長男として生まれました。15歳のころになると、彼の剛毅で同じ年頃の子供と違って、並外れた才知は高砂と言う土地での漁師としての働きに身をもてあまし、いずれは大船乗りになって諸国を航海し、交易したいとの強い思いで兵庫津(現在の神戸)に出ました。

そこで兵庫津でも由緒ある回船問屋のもとで船乗りとして雇われました。生来の激しい気性、頭の回転の良さで忽ち雇われていた廻船問屋の船主に認められ、船の操舵法をはじめ商いの方法等を学んで、早くも二年後にはその主人から自らの船を与えられました。

松右衛門のあふれる才知と実力は、兵庫津における船頭仲間の間でいち早く知れわたりました。彼の過酷極まる幾多の航海での成功とそれによる船乗りとしての並外れた才能は、すぐに兵庫の大きな回船問屋北風荘右衛門の目にとまり、彼の知遇を得て兵庫津佐比江町に店を構え、船持ち船頭として独立することが出来ました。

第一世 工樂松右衛門の肖像 写真第一世 工樂松右衛門の肖像


寛政11年の兵庫津佐比江における水帳(土地台帳)に、工樂松右衛門は御影屋松右衞門名としてハッキリと記されています。

御影屋松右衞門の名前がある佐比江新地の宅地図 写真御影屋松右衞門の名前がある佐比江新地の宅地図
(出所:岡方協議会所蔵、神戸文書館架蔵)

当時の佐比江遊郭の様子 写真当時の佐比江遊郭の様子
(摂津名所図会、工樂家蔵)

姫路藩拝領上下 写真姫路藩拝領上下

晩年に兵庫津から高砂に帰ってきた工樂松右衛門は、一世から三世にかけて高砂港の修築に貢献し、その完成に際して姫路藩主より裃を拝領しています。

蝦夷地 エトロフ島に港を建設

松右衛門45歳くらいのころ(天明から寛政年間)、日本の北辺にロシア船の出没が盛んになってきた状況を鑑みて、寛政2年江戸幕府はその海防に備えるため大阪町奉行を通じて兵庫の回船問屋衆に対して択捉(恵登呂府)に港を作るのにふさわしい人物を推薦するように命じました。その時、北風荘右衛門は松右衛門に白羽の矢を当て、松右衛門が適任として彼がその任に当たるよう推挙しました。その時松右衛門は50歳に近かったですが、同年2月、大阪の町奉行に召されて幕命により江戸に出向くように言われました。そして「蝦夷地に行って回船繋場所を検定して埠頭を築造するよう」命じられました。

同年5月自らの船「八幡丸」に20名の掛官を伴って、旭日大旗5本小籏24本と、その他築港に必要な器械を載せて択捉島に向かいました。しかし極寒のため工事の継続が不可能となり、その年の10月一旦兵庫に帰りました。その12月、幕府より択捉に波戸を築いた骨折の労に対して金参拾両を賜りました。そして翌3年3月再び蝦夷地に渡って港を竣工させるよう、幕府より命じられました。

その後5年間に亘って工事を行い、湾底の大きな石の除去を自ら工夫した工事の船でそれを可能にし、ついにその工事を完成させました。択捉島の紗那会所近くの有萌に波止を築立しました。島民は松右衛門の業績と徳を偲んで松右衛門澗(かん、船泊まりのこと)と名付けました。その功績により、松右衛門は享和2年(1802年)幕府より「工樂」の性を賜わり、名字、帯刀を許されました。

以上の説は、「工樂家三世略伝」に基づく工樂松右衛門の蝦夷地開拓、択捉島における松右衞門澗工事着工の経緯で「兵庫県史」や「高砂市史」においても採用されており、広く定説として採用されてきています。しかし、2019年3月発行の高砂市教育委員会による「工樂家文書調査報告書」の第四章第一節 蝦夷地と工樂松右衛門における谷本晃久氏執筆により、年代観の誤りが指摘されました。史実の検証結果は、以下の通りと推測されます。工樂家も、この谷本晃久氏の解釈を採用することにします。

その内容とは、幕府が初代工樂松右衛門に択捉島に埠頭の建設を命じたのは、寛政2年ではなく、同じ戌年を一回り下がった享和2年のこととなります。寛政2年は、松前蝦夷地は未だ松前藩の領地であって、その地を幕府が埠頭を築く「御用」を命じることはないはずであるというのが根拠です。したがって、初代松右衞門の蝦夷地での「御用」に関わる活躍は、享和2年(1802年)から文化4年(1807年)の間の箱館奉行所の「御雇」を勤めていた頃である、ということになります。

工楽松右衛門使用の船箪笥と往来手形 写真工樂松右衛門使用の船箪笥と往来手形

工樂松右衛門が渡った択捉の地図 写真工樂松右衛門が渡った択捉の地図

松右衛門蝦夷地に渡航した時使用した地図 写真松右衛門蝦夷地に渡航した時使用した地図

箱館港の建設

また文化元年、箱館において船焚場(船渠)を作り、また幕府(箱館奉行所)より築島の命を受けて完成させました。松右衛門は、箱館の船焚場の建設に際し故郷高砂にある「石の宝殿」に産する竜山石の石質が良く火力に耐え得る特徴を持っていることに着目して、その石を自船に積んで箱館に運び、船焚場(船たで場とは、船底を火で焦がして貝や船虫がつくのを除去する作業所)を築造して、多くの船主に大いに便益を図りました。この仕事は公儀によるモノとは言え、特に船焚場の建設は自費で賄う部分が大きかったようです。しかし後年、松右衛門はそうした施設の土地所有権を、後に高田屋嘉兵衛に永代譲渡しています。

豊前 伊田川の砕石、撤去の方法を伝授。
そして小倉藩、小笠原候の御座船をつくる

九州小倉藩の小笠原忠固は播磨出身であったので、工樂松右衛門の名声を良く知っていたためか工樂松右衛門と少なからずの関係を持っていて小倉藩の川の開削や造船、湊の建設の依頼を工樂松右衛門にしました。享和3年、豊前国の彦山山麓の巨木、大木を、伊田川を下って積み出すのに川口の水中に岩礁が沢山あって小船すらも通れず、航行に極めて難儀をしていたのを、その領主小倉藩小笠原候よりの依頼を受けて、同藩の杉尾禎ら蔵という者にその岩石の破砕の術、及び撤去の方法を授けて通船を可能にしました。

また文化七年、小笠原忠固は朝鮮通信使節応接の正使に命ぜられたため工樂松右衛門にそのための船の製作を依頼しました。松右衛門は一千石以上の船艦を高砂で作り、船の名前を高砂神社の相生松にちなんで相生丸と名付けて小倉に届けました。

その相生丸は、「工樂家三世略伝」によるとその構造の詳細は不明としつつも、船の中央部は小笠原忠固候の居室として2層にし、その内側を鎖でつないで船が揺れてもその部屋は傾かず安定を保てるような工夫を凝らして、お殿様を大いに喜ばせたそうです。

それにより、小笠原忠固はその相生丸の完成褒め、松右衛門に御用達格を与え、麻の上下を贈りました。

この相生丸の船については、実物を見た佐渡の廻船商人、笹井秀山が西国に旅して(文化10年)見聞した内容をまとめた日記の中で書いています。小倉城下にある船着き場で小倉のお殿様の御座船をみて、「これを相生丸と申す也」と書き、続けて帆柱は杜松の壱本丸で帆ぶたの上には紺染めの網がかかり、メッキの金具が海に映ってまるで神前のようであったと。船は、3,200石はあっただろう、と書いています。3,200石とは大きすぎるようですが、船乗りの言うことですから、それなりの実感を持って書いたと思われます。(「海陸道順達日記」佐藤利夫編 法政大学出版局より)

高砂港の浚渫、修港

文化時代の高砂港 写真文化時代の高砂港

三世が文久3年完成させた高砂港 写真三世が文久3年完成させた高砂港

工樂松右衛門築造の高砂港湾 写真工樂松右衛門築造の高砂港湾

文化7年、工樂松右衛門は高砂港の築港に尽くします。元来高砂の港は、加古川から流れてくる土砂の堆積で満潮の時でも十数町も先にその潮面があって船舶の繋泊が出来ず、皆困っておりました。 そこで高砂の船乗りの多くの願い出を受けた川方衆は、湊に土砂が多く堆積して役に立たないための対応策を高砂出身の工樂松右衛門を呼んで相談しました。そこで姫路藩の了解を得て工樂松右衛門に工事を依頼し、松右衛門は翌年竣工させました。初代松右衛門はこの普請(工事)のために兵庫津から髙砂に人別を移し、檀那寺をそれまで兵庫津永福寺から十輪寺にしました。それくらい工樂松右衛門自身、は高砂を大事に思っていたのです。しかし家族は兵庫津で廻船業を続けています。
その功績により、領主酒井雅楽より、永代5人扶持、及び金拾両をその子孫にまで下与されました。が、明治維新の廃藩により途絶えました。この髙砂湊の改修事業は、後に二世、三世松右衛門に引き継がれることになりました。

領主酒井候より賜った裃 写真領主酒井候より賜った裃

備後国 鞆港の波止の建設

また文化8年、備後国福山候阿部伊勢守より同国鞆津開港、並びに入川口の普請を工樂松右衛門に委嘱したい旨の依頼が、領主である酒井の殿様にありました。その酒井候からの伝達に対して、その当時松右衛門は病にかかっていたため、辞退を申し出ましたが、出向いて工事を指揮するようとの命により、やむを得ず鞆港に赴いて工事を指揮し、翌9年に竣工させました。

その功績により、福山藩主より次のような書を与えられました。「鞆の津波戸普請の一件、並びに城下川口普請に対して、病の中にもかかわらず、格別丹精込めて完成させてくれたこと、多いに満足している。よってここに三人扶持を与える」と。

その後、同地において松右衛門の記念碑も建設されましたが、今は存在していません。しかし松右衛門が工事を指揮した大波止の石組みは、今でも残っています。

静岡県川崎湊

そのほか、二世松右衛門は静岡県榛原郡川崎湊の改修をする依頼を受けていました。遠州川崎は寛政六年(1794年)以降一橋領であったが、その湊の整備を二世松右衛門に依頼してきています。松右衛門の築港技術に対して、信頼と期待をしていた証でしょう。その一部図面も残っていますが、実際には直接工事には関わっておらず、実現するまでには至りませんでした。