• HOME
  • 松右衛門帆について 松右衛門帆の特徴

松右衛門帆の特徴

松右衛門帆の特徴について正しく理解するのは、工樂松右衛門公式サイトのページです。工樂松右衛門がなぜ注目されているのか、表面的な知識や説明で理解したつもりならないようにしてください。

“松右衛門帆が日本最古の帆布である”というのは、キチンとした資料に基づくと誤りです。松右衛門より以前に日本でも帆布はありました。「17世紀の初めには木綿帆の使用が確認されています」(石井謙治著『帆について 上』)。また「豊臣秀吉の作らせた日本丸は(中略)千五百石積みで櫓百挺、帆布角帆が一箇帆柱の正中にかかり、順風の時に用いたというし、末次船も四角形の前に「笹帆」を張り、後ろ帆柱には木綿の三角帆をつけ、船首には小型の遣り出しの帆で四角形の木綿帆であった」(関西重布会発行『帆布の今昔』)という記録もあります。

松右衛門帆の特徴を、誤って紹介しているところがあります。「太い綿糸をたて、よこ2本ずつで織られている」というその織り方を発明したと説明しているのは大きな間違いです。こうした誤解を根拠に、「松右衛門帆」を再現しているというのは問題です。そうした“織り方をまねているから松右衛門帆だ”というのは全くの間違いです。たて糸2本、よこ糸2本で織られている平織り組織は、松右衛門が開発した以前にも見られます。松右衛門が開発するまでの帆布は、丈夫さを保つために、厚手の木綿の布がなかったので普通の綿布を2枚、もしくは3枚を重ねて太い綿糸で刺し子にして縫い合わせ、三幅(凡そ2.2〜2.5m)に聯綴し、それを1反として使用していました。それを刺し帆と言いますがそのための作業は大変な手間と時間を要し、その割には脆弱で長持ちしなかったのです。

千葉県立関宿城博物館蔵松右衛門帆 写真千葉県立関宿城博物館蔵松右衛門帆

上の写真をよく見てください。左右の帆を太い縄で結いでいますが、この部分はしっかりと編んでいないと帆にはらんだ風の力で裂けてしまいます。ですからこの両端部分と帆の中央部の織り方を変えているのが松右衛門の工夫の最も重要なポイントです。中央部分は縦糸2本、横糸2本を緩く編んで、両端は糸数を変えてしっかりと編む、このポイントが揃っていないのは、単なる織帆であって松右衛門帆の名に値しません。

松右衛門は、使用する木綿糸の段階から工夫を凝らし、木綿を約1ミリ強の太い糸に縒って帆布にしました。それにより、面倒で手間のかかる刺し帆に代わる、扱いやすくて操作性の高い、厚手の軟らかい帆布の試織に成功したのです。今日の機械織りではその風合いは出ません。松右衛門が開発した帆布は、幅約2尺5寸(73.5〜75cm)、長さ約53尺(約17m)から72尺(約21m)もの厚手で、且つ扱いやすい軟らかい帆布の全体を言うのです。
その両端(耳)はわざと縦糸1本にして、しっかりと織っている点が最も重要なポイントです。その理由は、幅2尺5寸の帆を横に何枚も紐でとじ合わせる際、その繋ぎ目が丈夫でないと裂けてしまって帆としての役に立たないのです。またその繋ぎ目に隙間があることによって適当に風を逃がして(通して)、帆の操作性を高めているのです。
こうした特徴を備えていない帆布は、松右衛門帆とは言えません。一部分のみを似せて織ったから「松右衛門帆」だというのは、松右衛門の努力を全く知らないか、評価していないことになります。

越前河野北前船主の館保存 帆布 写真越前河野北前船主の館保存 帆布

松右衛門帆たる独自性

松右衛門帆の松右衛門帆たる独自性は、整理すると以下の4点を兼ね備えていることです。ひとつの特徴を満たしているだけでは松右衛門帆とは言えません。

  1. 1. 中央部は太さ約2ミリの緩く縒った木綿糸(現在の帆布に使用されている糸の太さでいうと2番手~2.2番手に相当)を、タテ糸2本、ヨコ糸2本で緩く織って幅約2尺5寸

  2. 2. その帆布の両端、両耳(両端)1寸ほどは、タテ糸1本でしっかりと織られた、たて畝織り

  3. 3. 糸はよりを強くせず、織り目を少し粗く織っている

  4. 4.「松右衛門帆は巾2尺2、3寸から2尺5寸あるもの」全体をいう(「造船心得集」文化9-10年)

上記の一部の特徴の一部のみを持ってこれが「松右衛門帆」というのは正しい理解ではありません。
タテ糸2本、ヨコ糸2本の太い木綿糸のよりを弱く、織り目を少しゆるく織っていることにより、帆布の中央部分は柔軟性に富んでいて、巻いて場所を取らずに折りたたみ易いような工夫がされているのです。すなわち、和船においては、嵐や時化(しけ)の時や入港中の際には帆を下ろし、折りたたんでおく必要がありますから、その際の折りたたみやすさ、柔軟性(フニャフニャであること)も考慮されているのです。堅くて丈夫すぎると、折りたためません。したがって松右衛門帆布の柔軟性は、形あるモノに利用するのには不向きでしょう。松右衞門帆は、現在では決して丈夫な帆布には見えません。今のヨットや帆船の帆に使用されているのは、もっと丈夫な合成繊維です。

このようなセイルクロスや一般の帆布は、その点軽くて丈夫で、バッグやリュックに最適です。人類最古の織物は麻と言われていますが、その麻の帆布らしきモノがエジプト時代に既に織られていたようです。日本でも、明治17年滋賀県に近江麻糸紡織(株)、続いて北海道製麻(株)などが設立され、麻の帆布が製織されました。これらは後の帝国製麻(株)の前身となります。大正時代や昭和初期には、亜麻製帆布が国鉄の貨車のシート用に油引きをして使用され始めました。その他郵便行嚢用袋などにも多用されました。その後アメリカから産業用の綿帆布が輸入され、その後は軍需用を中心に大砲の覆いカバー、テント、リュックにと、一般帆布の需要は大きく広がっていきましたが、今日その丈夫な一般の帆布製バッグがファッション性を加えて見直されてきています。

松右衛門帆の独創的な技術は鞄やバッグに応用することなどとは全く無関係です。北前船など、木造の和船に使用した場合の有効性に大きな意味を与えたのです。その後明治期になるとその松右衛門帆の織り方の技術は、木綿製調帯(ベルト)の織り方に応用されて産業分野への技術へと引き継がれ、電動機の伝導ベルトや搬送用のベルトの発展に役立ちました。本来はこうした本質を見抜いて、技術進歩への貢献を評価することが大事なことだと思われます。

偽松右衛門帆の横行

松右衛門帆は、 寛政二年 (1790年 )に販売を開始しました。

工樂松右衛門がそのユニークな帆を苦労して発明した後、特にその製法を松右衛門は独り占めすることなく自由に作って航海の安全に役立つことを願ったためか、短い期間で松右衛門帆は全国に広がりました。もちろん、その松右衛門帆の創製に協力してくれた兵庫津の船具商の功績も無視できません。

しかし当時の船主達が自由に製作することを止めさせなかったことが仇となって、松右衛門が発明した帆の重要性を理解せず、本来の松右衛門帆の製法、特長を備えていない粗悪品が出回ったことに初代、二代目松右衛門はずいぶん頭を悩ませていました。そこで三代目松右衛門の時に、粗悪品の帆が出回っていることに対して松右衛門が改め方(検査)を行って品質管理をしたい旨、安政三年に姫路藩や幕府に願書を出していたくらいです。例えば、品質の悪い糸を使ったり、手抜きの織り方をしているのですぐに裂け裂けてしまうなど、本来の松右衛門帆の特徴を備えていない品質の松右門帆が多く出回っていたのです。

「江戸末期には本来の松右衛門帆とは言えない織帆が横行していたようです。安政年間、薩摩藩では大阪から買い入れる帆布の代金が膨大な額に上るため、藩内で2尺の幅の狭い帆布を織るようにした」(「帆について」上 石井謙治)という解説もあります。

そういう粗悪品かもしれない生地のサンプルとして研究用に博物館に寄贈した切れ端を参考に、それを再現して製作したという松右衛門帆のメーカーがあります。今の時代でもそういうことがあるのは残念なことです。

実際に使用されていた松右衛門帆

松右衛門帆 写真

松右衛門帆 写真

千葉県立関宿城博物館蔵「松右衛門帆」