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松右衛門帆の生産地

松右衛門帆の生産地は明石!

松右衛門は、自ら開発した帆布を、当時すでに兵庫津の豪商として活躍していた回船問屋の北風荘右衛門を訪ねて紹介しました。その帆布は、当時姫路藩の専売であった播州木綿で太い糸(一ミリくらい)で縦横に織って平織りにした綿布でした。北風荘右衛門は大いに感心し、北風家の筆頭別家で代々船具商を営んでいた喜多二平を紹介し、松右衛門と協力して下兵庫匠町の喜多二平の裏庭に織場を設けて松右衛門帆を製造し、北風家に出入りする船に売っていたということです(松木哲著論文「松右衛門帆」)。そして喜多二平の熱心な宣伝販売活動によって松右衛門帆とその名は全国に広がり、評判が鳴り響きました。

松右衛門は、船乗りとして多くの航海を経験し、それを通して千石船等、大型の船の帆を操る場合の問題点を実に細かく研究し、その帆としての品質、あらゆる天候事情の下での操作性、安全航行を考慮して松右衛門帆を開発しました。松右衛門帆の登場により、特に北前船などにおける帆の扱いがしやすくなり、耐久性が向上したため、外海を航海する船に広く普及していったと想像できます。結果として海上輸送の効率が高まり、大量の物資移動が容易となり、江戸後期の経済の発展に大いに寄与することとなりました。

松右衛門帆の製造は、最初喜多家の裏庭で行なわれていたたようですが、その後駒ヶ林(神戸市長田区)に移したようです。松右衛門帆の需要がさらに高まってくると加古郡二見村(現、明石市二見町)にも作業場を造り、特別の専用織機をあつらえたと予想しています。そこで松右衛門帆の大量生産が行われたのです。二見地方は綿作が盛んで、木綿が手に入りやすかったからでしょう。それが発端なのかどうかわかりませんが、「帆布は明石の特産物にして我国に於いて最初は明石の外に産せなかった」と明治4年発行の『明石郷土史』に記されています。

さらに明治21年8月1日発行の『神戸又新日報 明石通信』には、「松右衛門帆は当地産物の一にして近来は随分盛大なるものにして、製造家48職工殆ど300人、1年の織りたて高2万5千反此の価格凡そ3万5千円に達し此の製品は従来兵庫、大坂、東京地方へ輸送し、需要に供せし」との記録があります。

明石郷土史 写真

明石郷土史帆布 写真

明治4年発行 『明石郷土史』

また「明治19年には明石市相生町の横山治右衛門が帆布の大工場を作り、そこを品川宮中顧問官の巡視の際、松右衛門の故事などにも種々答えた」という記録もあります。

「明治42年の調査に関わる明石郡の特有物産中重要なるものは清酒、燐寸、帆木綿、陶器、黒瓦」と、三番目にあげられ、「その帆木綿は当時松右衛門帆と称し居りしものにして・・・、年額三十萬圓以上に達せり」と『明石志』に記載されています。その後、昭和の時代になると明石市の二見には播磨重布、魚住帆布、佐伯帆布などの帆布工場が次々にでき、タイヤコード(ゴムタイヤの芯地)、ベルト用布の生産が盛んになって行きました。工樂松右衛門が明石の二見に作業場を作ったのをキッカケに明石の西方面で帆木綿の生産が盛んになりました。生まれた地、高砂が松右衛門帆や帆布の生産地ではなかったのです。松右衛門帆が「高砂の地場産業」であるので再興する、という触れ込みを目にしましたが、史実を曲げ、アル意図を持った作り話だと思われます。

神戸又新日報 明石通信 写真『神戸又新日報 明石通信』

松右衛門は、こうした帆布は当時木綿の布を織る織機(手織機)があれば何処ででも製作が出来るため、発明した新製法を惜しむ事なく指導し、その製造、販売を独り占めすることなく全国の船乗りが安全で効率よく帆走できて喜んでもらえるよう、公益を大事に考え、航路の発展を願っていたのです。

北海道との物資の輸送に大きな役割を果たした北前船はもちろんのこと、はるか北関東と江戸との物資の運搬に不可欠であった利根川の高瀬舟の帆にも普及するほどの、素晴らしい発明でありました。