帆の開発は、松右衛門が大型船の船乗りになって約20年の経験をもとに、それまで彼が乗っていた船に使用されていた薄い布を2,3枚重ねて刺し子で縫ったいわゆる「刺し帆」を、もっと耐久性があり操作性にも優れ、且つ製作に手間のかからない帆を作りたいという強い思いによってもたらされました。厳しい航海の中で考え、思いを巡らしながら後に松右衛門が所有することになる八幡丸にも使用して性能テストを行い、ついに天明5年、丈夫なぶ厚い一枚織松右衛門帆の試作に成功させました。
寛政4年ごろ、松右衛門は兵庫津佐比江新地に広い屋敷を所有して帆布製造のための仕事場を確保します。そして自ら開発した帆布を、兵庫津の豪商として活躍していた回船問屋の北風荘右衛門を訪ねて紹介しました。それを見た北風荘右衛門は、彼が作った帆を大いに評価して北風家の筆頭番頭であり、別家として代々船具商を営んでいた喜多二平にも紹介します。二人は兵庫津匠町にあった喜多二平の裏庭に織場を設けて実用のための改良をさらに続けます。やがて本格的な生産体制づくりを整えて松右衛門帆が製造され、北風家に出入りする船に販売し始めました。(神戸大学海事科学部紀要論文「松右衛門帆」松木哲著)。
喜多二平の熱心な宣伝販売活動によって松右衛門帆とその名は全国に広がり、評判が鳴り響いたのです。それ故、松右衛門が開発した松右衛門帆の生産地は兵庫津ということになります。
松右衛門帆の登場により、特に北前船における帆の扱いがしやすくなり、耐久性が向上したため、外海を航海する船に広く普及していきました。結果として海上輸送の効率が高まり、大量の物資移動が容易となり、江戸後期の経済の発展に大いに寄与することとなりました。こうして兵庫津において生産が始まり、全国に広まっていった松右衛門の開発した帆は、後に「松右衛門帆」と呼ばれるようになりました。
その後松右衛門帆の需要が高まってくると、駒ヶ林(神戸市長田区)にも製造拠点を広げたようです。年が下って慶応3年(1867)薩摩藩の鹿児島紡績所で水力動力による帆布の製織がはじめられました。その後明治初期になると綿紡織機械が海外から輸入されて滋賀県の近江麻糸紡織(株)が設立されました。以降北海道など全国に機械紡績による帆布の製造が盛んになってきます。兵庫県では明治28年に加古郡阿え村古宮に古坂製帆所が産声を上げます。
加古郡古宮にあった古坂製帆所の帆布織機(工樂家所蔵)
その後加古郡二見村(現、明石市二見町)に播磨重布、魚住帆布、加古郡魚住町に佐伯帆布など7工場が次々と設立されることになります。しかしこれらの機械製織機の帆布と手織りの帆布と区別し、当時は手織りの綿帆布が「松右衛門帆」と言われて、機械で織った帆布は松右衛門帆とは呼ばれませんでした。
二見地方は綿作が盛んで、木綿が手に入りやすかったからでしょう。「帆布は明石の特産物にして我国に於いて最初は明石の外に産せなかった」と昭和4年発行の『明石郷土史』に記されています。


昭和4年発行 『明石郷土史』
明治21年8月1日発行の『神戸又新日報 明石通信』には、「松右衛門帆は当地産物の一にして近来は随分盛大なるものにして、製造家48職工殆ど300人、1年の織りたて高2万5千反此の価格凡そ3万5千円に達し此の製品は従来兵庫、大坂、東京地方へ輸送し、需要に供せし」との記録があります。
また「明治19年には明石市相生町の横山治右衛門が帆布の大工場を作り、そこを品川宮中顧問官の巡視の際、松右衛門の故事などにも種々答えた」という記録もあります。
「明治42年の調査に関わる明石郡の特有物産中重要なるものは清酒、燐寸、帆木綿、陶器、黒瓦」と、三番目にあげられ、「その帆木綿は当時松右衛門帆と称し居りしものにして・・・、年額三十萬圓以上に達せり」と『明石志』に記載されています。
このように松右衛門の生誕地高砂は、江戸から明治、大正、昭和の時代になっても松右衛門帆や帆布の生産地ではありません。
『神戸又新日報 明石通信』
松右衛門は、こうした帆布は当時木綿の布を織る織機(手織機)があれば何処ででも製作が出来るため、新しい帆布の製法を惜しむ事なく仲間の船頭たちに指導しました。松右衛門帆の製造、販売を独り占めすることなく全国の船乗りが安全で効率よく帆走できて喜んでもらえるよう公益を大事に考え、航路の発展を願っていたのです。
北海道との物資の輸送に大きな役割を果たした北前船はもちろんのこと、はるか北関東と江戸との物資の運搬に不可欠であった利根川の高瀬舟の帆としても普及するほどの、素晴らしい「帆の開発」でありました。