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松右衛門の顕彰

工樂松右衛門 銅像

工樂松右衛門は、初代から幕府や姫路藩や他の藩からの命や依頼を受けて築港、波止の建設、新田開発を行い、相応の格式や褒美の金銭を受けてきました。寛政二年(享和2年との説もある)、択捉島での波止築立の功労を賞して金30両を下賜され、また享和2年に幕府松前奉行により工樂の姓を賜るなど、折々に果たした業績に応じてしばしば褒賞を受けています。特に明治以降になって同13年7月、明治天皇の神戸行幸の際は三世松右衛門に対して太政大臣三条実美から表彰されて「初代松右衛門の帆布創製と諸港修築に従事し力を公益に盡したため、特旨をもって追賞金25円を下賜」されています。また同16年11月には農商務郷正四位勲一等西郷従道より「天明5年、従前の製に代わる堅質の帆布を織り、それ以来環海の地で大きくその利益を受け、松右衛門帆の名前が長く世の中に広がって世に益するところが大きい」との理由で追賞されています。

また大正4年11月、大正天皇の即位を記念して初代松右衛門に従五位が贈られたのですが、それを祝して高砂神社に工樂松右衛門翁銅像が建立されることになります。

大正4年に建てられた初代の松右衛門翁銅像建設には、地元をはじめ東播地区の郡や各町村議員や役場の関係者、高砂町各町の代表者、そして松右衛門が活躍していた兵庫津の北風家、喜多二平の親戚他、兵庫津の町の人々から賛助金を募集して作られました。そのときの銅像除幕式の参列者名簿をみると、その範囲の広さがよく分かります。同じ今津町の住民であった美濃部達吉や、達吉の兄である美濃部俊吉の名前もあります。

最初の工樂松右衛門像 写真大正4年に建設された最初の工樂松右衛門像
(工樂家作成記念絵はがき)

しかしこの銅像は、昭和18年に戦時の金属供出にあい、無くなりました。そして約四半世紀の間、銅像の台座だけになっていました。

供出前の記念写真供出前の記念写真

銅像、金属供出後に残された台座 写真銅像、金属供出後に残された台座

戦後昭和41年、兵庫県天幕商工会会長などの呼びかけによって全国の帆布、重布業界の人々の寄付が集められて銅像が復元され、現在の姿で完成しました。今の工樂松右衛門銅像は供出前のオリジナルの松右衛門銅像の石膏型が工樂家に保存されていたため、それに基づき完全復元出来ました。

現在高砂神社境内に立つ工樂松右衛門像 写真現在高砂神社境内に立つ工樂松右衛門像

高砂という地での工楽松右衛門の顕彰を考えるとき、高砂川河口の土砂堆積により、港というの名ばかりでほとんど船が出入りできなかった状況を、町の有力な世話人達の懇願によって兵庫津から人別替えによって高砂に帰り、居住して土砂に埋まった高砂湊の浚渫、且つ改修、防波堤の築造に力を注いで港湾の実を上げ、その後の高砂町の発展に尽くしたことを、まずは顕彰対象に挙げねばなるまい。

松右衛門の開発した松右衛門帆は、日本全体の海運の効率化に大きく貢献したのは事実で、和船がまだ活躍中の明治時代までは、革新的な帆布の開発が顕彰の対象になっていた。しかし現在の高砂においては、今も彼の功績が町の発展に役立っている築港や工楽新田の開発が重要である。