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工樂松右衛門公式サイト
開設の趣旨

工樂松右衛門人となり、業績を正しく知っていただくための公式サイトです。

工樂松右衛門は、「松右衞門帆」という商標を使った帆布のバッグメーカーとは全く関係ありません。工楽松右衛門の名声を利用して、その商品に松右衛門の創始した帆布を使用しているという説明は正しくありません。北前船など、江戸時代後期の和船に使用することを目的に作られた帆布の創始者ではありますが、むしろ築港の技術者として多くの業績を残しています。このホームページは、工樂松右衛門のことを史実に基づき、松右衛門由来の文書等をもとに正しく理解しようとしている研究者向けに作成されている公式サイトです。

江戸時代の後半、ロシアの千島列島から南下する動きを食い止める国防上の理由により、江戸幕府より寛政2年(1790年)、エトロフ島に大きな船が係留できる埠頭(船着き場)をつくる命をうけて極寒の択捉島に渡ります。2年後、その埠頭を完成させ、その功績もあって享和2年(1802年)幕府より工樂の姓を賜わりました。それまでは、神戸兵庫津の廻船問屋としての名前、御影屋松右衛門と称していました。

松右衛門は、15歳のころに高砂から兵庫津(現在の神戸)に出て、兵庫津の由緒ある船主のもとで船乗りとして働きました。もとの名前は宮本松右衛門でした。松右衛門のあふれる才知は、帆船の操舵法等、回船問屋の仕事、商いの方法を店の主人から良く習得し、その習熟の早さと正確さは、兵庫津における船頭仲間の間でいち早く評判となったようです。そして40歳を過ぎた頃、奉公していた兵庫津でも由緒のある廻船問屋の株仲間であった御影屋藤兵衛から見込まれて家督を譲り受け、御影屋松右衛門として佐比江に大きな屋敷を構えて廻船問屋の仲間入りをすることができました。詳しくは、お知らせページの新着情報を参照してください。
工樂松右衛門が兵庫の津で活躍していた頃の古い地図が、2020年8月、長らく開かれたような形跡がない、虫食いもひどい状態で発見されました。佐比江の隣にある西出町には、初代松右衞門が結婚した相手を娘に持つ鍛冶屋善兵衛の家が舟入川に面したところにあります。その大通りの端には、北風荘右衛門の地所もあったことが分かりました。

それに先立つ天明5年(1785年)、兵庫津での船乗りの経験を元に有名な松右衛門帆の発明を行い、兵庫津匠町の喜多仁平の裏庭で生産を始めたようですが、佐比江新地の松右衞門自身の敷地内でも帆布生産を行っていたと思われます。佐比江新地の建物の広さは、それを裏付けるように結構広い敷地の屋敷です。その後、帆布の工場は播磨の二見に移しますが、松右衞門の兵庫津での活躍の中心は佐比江新地にあったことが立証されました。生まれた高砂へは亡くなる3年前に帰ってきて高砂港の浚渫工事や、福山藩の依頼により、鞆の浦の波戸の建設を行っています。

松右衛門帆の誕生

松右衛門の大きな業績の一つに、松右衛門帆の開発があります。それまで使用されていた船の帆の脆弱性に心を痛め、丈夫で扱いやすい帆の工夫に意を注いでいましたが、天明五年(1786年)四月、ついに新しい織り方(帆布の両端に最も重要な工夫を施した)の帆布製作に成功しました。単に厚手で丈夫な帆を発明したという一般的な説明は間違いです。それは「発明」とは言えません。

松右衛門帆というのは、幕末から明治時代の和船技術を熟知されている桃木武平氏も指摘されているように、「松右衛門帆は巾二尺五寸(約72~75㎝)なり」という和船に使用されて幅広の帆全体を言うのであって、長さは船の大きさによって様々ですが概ね62.5~70尺(約22~23m)になります。従って鞄や袋物に応用された状態は松右衛門帆とは言えません。名前の知名度にフリーライドして利用しているにすぎません。

松右衛門は自身の船乗り経験や当時の多くの船乗りたちの要望を取り入れて技術者としての能力を発揮し、現実に即した刺帆に変わる和船の帆に対する技術開発を行いました。当時の刺帆よりも値段は1.5倍から2倍もしたということですが、それは単に丈夫であったから高価だったというよりも、幅広で少ない帆の枚数でつなげて大きな船の帆としての操作性に関わる重要な工夫が帆の織り方にあったからです。

右の写真は、下の写真は、工樂松右衛門が創製した当時の帆布そのものですが、これが北前船に使用されていた帆布の松右衛門が制作した試織です。工楽家に保存されている初代松右衛門が創製した当時の松右衛門帆のオリジナルで、工楽松右衛門旧宅に展示されているバッグメーカー製作の帆布とは綿糸の太さもサイズも全く違います。本当の松右衛門帆には、発明に値する独特の工夫がなされています。それは帆の中央部と両端の部分の織り方を変えているところにあります。この工夫がないものは松右衛門帆ではありません。
松右衛門帆の特徴で詳しく紹介]

本来は、北前船のように天候の荒い北海を行き来する和船に使用する目的で開発された帆布であって、その目的で使用して初めてその特長が生かされ、有用性が分かります。

工樂家所蔵

工樂松右衛門創始の帆布

青森県野辺地町にある復元された北前型弁才船「みちのく丸」のために平成17年に製作された松右衛門帆。
「みちのく丸」は、日本古来の和船の建造技術や歴史を後世に伝えるために、船大工16名によって建造された復元船です。青森県上北郡野辺地町の常夜燈公園そばに陸揚げされていて、現在は船体のみ鑑賞することが出来ます。 (写真出典:青森県野辺地町。上の「みちのく丸」画像は、野辺地町ウェブサイト観光情報より、許可を得て転載しています。)

松右衛門帆の評価と普及

松右衛門がこの新しい帆布の開発に彼の工夫の才を傾注し、苦労しました。その成功と帆としての使い良さを伝え聞いた当時の船頭仲間達は、これを「松右衛門帆」と称して、喜んで使うようになりました。

この便利な「松右衛門帆」の名と存在は、兵庫津の豪商、北風荘右衛門が無償で提供していたといわれる船主宿・“北風の湯”に出入りする北国の北前船船頭の間で一躍有名になりました。その帆布の有用性は北海道との物資の輸送に大きな役割を果たした北前船はもちろんのこと、はるか北関東と江戸との物資の運搬に不可欠であった利根川の高瀬舟の帆にも普及するほどの、素晴らしい発明でありました。その高瀬舟で使用されていた松右衛門帆(その地方では「マツイム」と呼ばれていたそうです)は、北前船用と比較して綿糸の太さは細いですが、織り方の特徴は同じです。現在でもそのままの姿で千葉県立関宿城博物館において実在、保存されています。

下の写真は北前船用に織られた帆布で、綿糸の太さが高瀬舟用と比べて随分違います。

北前船で使用されていた帆布
(加賀市北前船の里資料館蔵)

<上の写真は加賀の北前船船主が使用していたとされる松右衛門帆ですが、帆の中央部分の織り方と縄でつながれている
両端部分の織り方が違っているのが分かりますか?これが松右衛門帆であることの重要なポイント。>

松右衛門はその帆布の製造に対して兵庫津の船具商喜多二平の助けを借りて改良を加え、大量生産のための織機の工夫にも取り組みました。

そうした帆布は当時木綿の布を織る織機があれば何処ででも製作が出来るため、発明した新製法を惜しむ事なく指導しました。今日良くあるように製法の「特許」を取ったり「商標」を登録するなどしてその製造、販売を独り占めにして“我が物にする”ようなことは一切しませんでした。むしろ、同じ船持ち仲間が自由に製造して、安全な航海のために広く使用され、役立つことを喜びました。それにより広く船頭や船主仲間に伝承されました。

このことが仇になって品質の悪い、すぐに裂けてしまう本来の松右衛門帆の特徴を備えない“粗悪な松右衛門帆”が広まってしまうことになり、二世、三世松右衛門はその対策に振り回されました。それを幕府に訴えた文書も、工楽家古文書の中に見つけられます。

復元された松右衛門帆

本当の松右衛門帆の復元

現在、オリジナルの松右衛門帆に最も近く再現された帆が、1999年大阪市制100周年を記念して建設された大阪「なにわの海の時空館」にある江戸時代初期の菱垣廻船、千石船を実物大に復元建造された浪華丸に使用されています。残念ながら、なにわの海の時空館は現在閉館中で一般には見ることが出来ません。

浪華丸を建造する際、その船に使用する帆布は、工樂家所蔵の工樂松右衛門自身が創始試織した帆布を元に研究を重ね、ほぼ正確に復元製作されました。1枚の帆布が巾75cm、長さ20mもの大きな帆布で、千石積みの浪華丸にはそれが横に24枚繋がれ、張られています。その横18m、高さ20mの帆全体を松右衛門帆と言います。

この「浪華丸」で使用されている帆布、そして「みちのく丸」に使用されている帆布のみが、現在目にすることが出来る本格復元された松右衛門帆です。

松右衛門のその他の活躍

松右衛門はそのほかにも、築港やいろいろな土木用の船の開発など、さまざまな業績を残しています。

蝦夷地がまだ松前藩領下にあるとき、寛政年間(寛政六年)においてすでに、蝦夷地場所請負商人との取引でエゾマツを大阪に回漕しています。廻船業として秋田など北国から大阪への建築用資材や巨木の運送にも重要な役割を果たしているのです。

その他、築港工事などにもその技術力と才能を発揮し、江戸幕府の命にしたがって力を尽くしました。60歳を過ぎていた松右衛門は、さらに高砂の「石の宝殿」産出の石材が耐火性に強いことに注目して、その石材を使用して北海道の函館に船焚場(ドック)を自費で建造したり、また私財を投じて故郷高砂港の修築を行いました。

さらに初代松右衛門を引き継ぐ松右衛門二世の時代になりますが、文化11年から13年にかけて出羽庄内から銀七百貫相当のケヤキ材を調達して讃岐金比羅の金堂建設のための建築材の調達に大きな貢献をしています。

松右衛門のこうした「私」を殺して「公」に尽くす態度は、江戸時代の農学者大蔵永常がその著「農具便利論」で記しています。「此の人常にいへらく、・・・(略)・・・凡其利を窮るになどか発明せざらん事のあるべきやは・・・其志ざす所無欲にして皆後人のためなる事をのみ生涯心を用いたりき。」