工樂松右衛門の業績、その活動の範囲は多岐にわたります。勿論、船乗りとしての活動とそれに伴う業績が中心になりますが、築港に関する様々な工夫や、発明、さらに造船の技術は、江戸時代を代表する科学力、技術力の事例集として、もっと評価されてもいいのではないかと思われます。
工樂松右衛門略歴2
工樂松右衛門略歴1
当時の築港に当たっての重要な課題は、船が港に近づけるよう、海底に堆積した土砂、大小の石を取り除くことでありました。その困難な水中での仕事を容易にするため、松右衛門が果たした工夫の智恵は、まさに目を見張るものがあります。港の建設に関する土木工事に、多くの作業船が工夫され、使用されました。
その実際は、江戸時代後期の農学者大蔵永常の『農具便利論』に図示、説明されています。松右衛門が考案した船に以下のような名前の船があり、図面も表して紹介しています。これらは、日本の土木学会においても評価されており、今日の土木工事に使われる工具の先駆けにもなっています。
・ろくろ船
・土砂積船
・底捲船
・石釣船
・杭打ち船
・杭抜き船
・石釣船
・鋤簾船 等
その他、湊の土砂の浚渫に不可欠な土木、水工用器具を開発しています。詳しくは、江戸時代の農学者大蔵永常の「農具便利論」下巻に紹介されています。大蔵永常は初代松右衛門には会う機会がなかったようですが、二代目松右衛門と会って初代松右衛門のことを詳しく聞いて「農具便利論」に書き加えています。
この大蔵永常は、「農具便利論」において工樂松右衞門の製造した船に関する記述を終える前に、以下のように記しています。
「この他、淀川の浚渫が必要なところに関する工事の見積もり、商船に関する相談に乗ったり助力を行うなど、活動の範囲は広く、この人の志すところは無欲にして、皆後の世の人のためになることを生涯の心に刻んでいた。私はこの人物に一度会いたいと長く念じていたが、ついに文化九年八月に身まかられてしまった。私は、諸国の農具で便利であると思うモノを集めて写し、書物にしたいと思っていたところ、亀山藩の由良氏から、この工樂翁の作ったと思われる船の図面を送って貰ったが、よく考えるとこれは全く農具とは言えないけれども、新田の開発や河海の土堤の工事にもよく使われるモノであるので、農具と無関係ではないだろうと考えた。翁のこうした多年の努力は、世の公益に尽くしたという功績を考慮して、ここに取り上げた。」
「農具便利論 下」 大蔵永常著
農具便利論 奥付
石釣船
『農具便理論下』より
石釣船、石船、砂船の図抜粋
文政2年(1819年)、二世工樂松右衛門は領主酒井忠實候より高砂沿海部の数十町の開拓、耕田を命じられました。その土地は、自分の名前をとって宮本新田とすることを許可しました。松右衛門二世35歳のときです。この時にも松右衛門一世が開発した多くの土木工事器械が役立ちました。またこの時の埋め立てに伴う杭打ち図など、どのように工事を進めたのかを知る詳細な工事図面が残されています。宮本新田は姫路藩に認可された正式名称ですが、通称工樂新田とも呼ばれました。当時の姫路藩家老河合隼之助は、播磨沿岸部の新田開発に力を入れており、そのために二世、三世の松右衛門は、大きく関係していました。その新田は、今は海岸部の工場用地となって大きく役立っています。
「工樂松右衛門とは」のページで紹介したように、松右衛門故郷高砂の港の浚渫、修復のみでなく、全国にその築港の痕跡を残しています。
1)択捉島の有萌湾の紗那港
2)箱館の港
3)広島県福山、鞆の港
4)その他、いくつか港の築港に対する依頼に対して相談に乗ったり、多少の関与があったり、計画図面が残されているものがあります。
・小倉藩宇島(福岡県豊前市)
・磯崎浦(愛媛県八幡浜市)の波止建設
・遠州川崎湊(静岡県牧之原市)
松右衛門がエトロフ島紗那港の
築港の際に使用した望遠鏡
江戸時代の海運の発展に大きく貢献したのが、松右衛門の開発した帆布です。
松右衛門が工夫した帆布は、且つ、それまでの刺し帆と言われる幅約1尺(30㎝)の薄い木綿の布をよこに3枚つなぎ、それを2枚重ねて横方向に太い木綿糸で刺しを入れる面倒な作り方ではなく、太い木綿糸でたて、よこ2本ずつで織った丈夫で船の操縦性に優れた特別なため工夫を施しているため、急速に広まりました。
工樂松右衛門の松右衛門帆たる所以は、単に竪(たて)糸2本、緯(よこ)糸2本で織っているという単純なことではありません。そういう織り方は「ななこ織」と言って松右衛門以前からありました。大きな千石船に使用するため、細長い帆布を左右何枚もつなぎ合わせて、その隙間を風が通ることによって、時化の時の風の抵抗を少なくするという工夫がなされていることにあります。それには帆布の両端が丈夫でなければなりません。そのため、帆布と帆布をつなぎ合わせる部分(両端の織り方)に独特の工夫が施されていて、それが松右衛門帆の最も重要な特徴です。その両端約3センチの独特な織り方を備えていない(確かめられない)帆布は松右衛門帆とは言いません。北海の強風でも裂けることのないよう独特の工夫による丈夫な織り方で作り、しっかりとつなぎ合わせられるようにしてあるのです。
それを知った当時の船頭達は、「松右衛門が工夫、開発した帆」を賞賛し、それを「松右衛門帆」と称して自らの船に進んで使うようになりました。松右衛門は、自ら創製した帆布「松右衛門帆」の織布の製法を独り占めすることなく、広く船頭や船主仲間に伝承したため、その評判が全国に広まり。北前船に多く使用され、交易の発展に多いに尽くしましたが、その分粗悪品の松右衛門帆が出回り、その取締りと管理に苦労したようです。
そのような特徴がよくわかる、ほぼ実物大の未使用の松右衛門帆が、奥能登輪島にある上時国家で見つかりました。上時国家は平清盛の義弟と言われている大納言・平時忠から続いている格式高いお家です。上時国家も、江戸の中・後期には千石船をもって廻船問屋を営んでいました。
上時国家は、総檜の唐破風造りで圧倒的な威厳を備えた豪壮な玄関を持つ、国指定重要文化財になっています。
上時国家保存の千石船用品は、工楽家保存の用品とほぼ同じようなものが残っています。
輪島市上時国家保存松右衛門帆