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工樂松右衛門旧宅について ~四代目工樂松右衛門以降が暮らした家。
初代が建てた家ではありません~

以下注目の新情報

“工樂松右衛門旧宅”は工樂家より、平成28年に土地とともに高砂市に寄贈されました。その際、建物内に保存されていた1万5千点に上る文書を高砂市に寄託していましたが、そのうちの約3,800点の古文書を日本福祉大学の先生等に、高砂市教育委員会が調査を依頼していました。その「工樂家文書調査報告書」(2019年6月5日、高砂市教育員会発行)によると、工樂松右衛門旧宅は工樂松右衛門が建てた家ではなく、明治期に四代目工樂松右衛門が他の人から買得していたことが明らかになりました。従って初代松右衛門がこの“旧宅”に居住した可能性はありません。工樂松右衛門は晩年に兵庫津から髙砂に戻ってきて亡くなるまでは東宮町の家に居住していました。初代松右衛門から三代目までは、東宮町が生活の中心であったと思われます。現在公開されている工樂松右衛門旧宅は、四世以降の松右衛門が暮らした家として2018年6月より一般公開されています。

しかし工樂松右衛門は、約15歳で高砂を離れて以降兵庫津で暮らしていました。現在の神戸市兵庫区です。そこで生涯における様々な業績を残したと推測させる大きな屋敷を持っていたことを裏付ける住宅地図の大発見がありました。2020年8月、工樂松右衛門の居宅を明らかにした土地台帳で、後に有名な松右衞門帆と称される帆布の開発、製造がなされたと思われる広い敷地の水帳が約150年(推定)ぶりに岡方協議会所蔵文書により発見されました。詳細は別ページ、お知らせ「大発見、兵庫津と御影屋松右衛門」を参照ください。

工樂松右衛門は兵庫津に出て船乗りとして活躍し、人生の大半を兵庫津で暮らしましたが、そこで次々と重要な業績を残しました。それは、高砂神社にある初代の工樂松右衛門銅像建立祝賀会に参列した人達の参列者名簿を見るとよく分かります。高砂をはじめ、加古郡町村の役人、議員以外に北風荘右衛門関係者など、兵庫津の人々の名前が多く出てきます。四代目以降の工楽家が過ごした家として、その中に保存されていた初代松右衛門からの文書、遺品と共に江戸から明治にかけての海運と経済発展の歴史が系統立てて紹介されればすばらしいことです。

それが2022年4月、神戸学院大学経営学部の松田裕之教授によってまとめられた『近世海事の革新者 工樂松右衛門伝―公益に尽くした七〇年』という題の書籍によって実現しました。これまでの不明な点がより多く明らかになりました。しかしまだまだ確たる点と点を結ぶつながりを証明する資料に欠けていることに気づかされました。関心のある研究者によって、さらなる上書き訂正があるでしょう。

工樂松右衛門旧宅公開後の印象

工樂松右衛門の旧宅ではありませんが、修復された江戸期の建物は、当時の豪壮な雰囲気があまり感じられないのが残念です。本来はもとの所有者、居住者から往時の家の各部屋の間取り共に、それらがどのように使用されていたかといった詳しい聞き取りがあるべきだったと思いますが、どうだったのでしょう。古い民家でありながら重厚な建物の雰囲気、往時の使い勝手をよくご存じであった数少ない人達から残念がられている、と聞きます。

改修には多くの費用がかかり市民の税金が費やされます。だからこそ後世まで長く活かされ、またまじめな観光客、研究者が二度三度と高砂に訪れていただけるようにするのが、本来の血税の使い道ではないでしょうか?

希望や期待がその通り実現することはそう多くありませんが、もし古い建築物であり、それを後生にまで残すだけの意味がある貴重な建物であれば、可能な限り価値ある建物としての姿で残してほしいものです。

工樂松右衛門旧宅を日本遺産の
構成文化財となりましたが・・・

工樂松右衛門旧宅が北前船寄港地・船主集落の構成文化財として日本遺産に認定されたようですが、工樂松右衛門は高砂ではなく神戸・兵庫津佐比江町で住み、工樂の姓をもらうまでは「御影屋松右衛門」として廻船問屋を営んでいました。

しかし一世から三世の時代に、松右衛門が北前方面との諸荷物の廻漕で廻船問屋を営み、秋田や新潟から材木を運んでいたことは、日本海側の北前船寄港地である浜田や酒田、新潟の客船帳に御影屋松右衛門の名前が残っていることからも明らかです。そうした意味で、北前船の船主の家には必ず家の仏壇を大事に祀るということを大事にしてきました。この工樂家でも、兵庫津から高砂に人別替えする際に、大きくて立派な仏壇を持ち帰ってきて長年祀ってきました。しかしこの旧宅には仏壇が残っていません。

銭屋五兵衛家の仏壇 写真銭屋五兵衛家の仏壇

加賀市 北前船の里資料館、酒谷 家の仏壇(冬仏壇と夏仏壇)写真加賀市 北前船の里資料館、
酒谷 家の仏壇(冬仏壇と夏仏壇)

北前船など、旧船主の家は遺族の中に船の遭難に遭った人が出ます。そうした亡くなった家族、使用人を弔い、祀る。そして航海の安全を仏さまにお願いする仏壇は非常に重要ですが、この公開された工楽邸にその仏壇はありません。この工楽邸を高砂市に寄付する際、その仏壇を形だけでも残していただけるよう願っていたそうですが、どういうわけで廃棄されてしまったのでしょう。今この旧宅を北前船の寄港地、船主・集落として日本遺産の構成文化財として紹介されているようですが、大きな片手落ち、と言えます。問題なのは松右衛門帆を創製した工樂松右衛門一世以下の先祖を祀っていた仏間に、わざわざその仏壇を廃棄して、その近くに正しくない「松右衛門帆」を展示していることです。松右衛門が残した重要な業績である松右衛門帆を、高砂市が委託してバッグメーカーに作らせている、松右衛門帆に似せて織った帆布をいかにもこれが千石、千五百石積みの北前船に使用された松右衛門の製作した実物であるかのように、丁寧な説明なく工楽松右衛門の旧宅に展示して見学者に間違った知識を紹介し、宣伝していることは問題です。

一世松右衛門以降先祖代々の位牌があった仏壇 写真一世松右衛門以降先祖代々の
位牌があった仏壇

また高砂が大阪や神戸・兵庫津から瀬戸内海の室津、鞆の浦、竹原などの港に寄港しながら日本海に出て、浜田、敦賀、越前、加賀、酒田、蝦夷へと向かって物資を運んでいた北前船(買積船)の寄港地であったという明確な記録はありません。高砂と北前船に対する研究をさらに進めて、正確な資料に基づく展示が行われることが望まれます。

工樂松右衛門旧宅公開の現状

江戸時代における海運の発展に大きく貢献した工樂松右衛門の遺産、江戸後期から明治、大正、昭和にかけての事業に関わる多くの古文書や、工樂家の生活と工樂家に伝わる多くの古い家具、装飾品、美術品など、一万点以上に及ぶ文書や遺物が早く整理されて正しい説明と紹介を添えて系統的に見学者に紹介するのが、工樂松右衛門旧宅としての責務でしょう。そうした日が近いことを期待します。

単に地域の人々の交流場所、趣味の工作物のフリーマーケットや、古物市の場所として利用する安易な“場の活用”ではなく、“公益に尽くした七〇年”の工樂松右衛門を偲び、郷土の歴史を学びながら、若い世代に町の発展と活性を夢見る場所として生かしてほしいものです。

現在の改修された建物は“今の建材”を使用して今風に修復・改修されています。この家が工樂松右衛門の住んでいた家でないとしたら、江戸時代後半に建てられて明治以降に住居として使われていた昔の各部屋の使用状況、どのように活用されてきたのかということについてもっと詳しく、丁寧に見学者に説明すべきと思います。しかし旧宅の寄贈後そうした質問や話し合い、説明の機会が全くなかったので仕方ないでしょう。工楽松右衛門四世、五世、六世が暮らしていた頃の住まいと改修直前の住まいの状況は、明治以降改修、改築が繰り返されてきたため変わっています。玄関に入って左側の部分、土間、庭倉、おくどさん、井戸のところまでは変えたという話はきいていません。古い商家の庭倉は、商材を保管する重要な役割を果たしていましたが、今回の修復でそれを無くして職員用の近代的なトイレに変えてしまうなどの設計変更がなされており、残念なことです。

玄関の部分は、入って右側は明治の初期は畳敷で帳場の役目を果たしていました。しかし明治末期に床を板敷にして、大きなカウンターを設けて現代風の事務所に改造されていました。

工樂松右衛門旧宅の昭和の時代(6世松右衛門)の姿は、ここをクリックしてください。

これからの工楽家旧宅の紹介方法

1階奥の座敷には、工樂松右衛門の業績とは全く関係ない工樂長三郎と棟方志功の写真が置いてあって、この部屋で談笑したとか、という説明があります。この説明は工樂松右衛門とは全く関係ありません。そうではなく、六代目の工樂長三郎との関係が重要で、棟方志功がなぜ工樂家に逗留するようになったのか、ここで棟方志功の作品にどのような影響を与えるようになったのかとか、工樂家が終戦後の荒廃した高砂に多くの文化人を招いて講演会や勉強会を持つなど、地域の文化活動を推進してきた一つの拠点でもあったのは事実です。また音楽活動の拠点としても利用されてきたことなどをよく知らずに、工樂家に対して一切の取材や真面目な情報収集もなく、表面的な伝聞情報のみで工樂長三郎の個人的関係を利用して紹介しているのはどうかと思われます。工樂松右衛門の業績を紹介する場所なので棟方志功の紹介は削除したほうが、適切だと思われます。

松右衞門帆の展示

この旧宅に実物展示してある「松右衛門帆」は正しくありません。公の施設において真実でない松右衛門帆をホントであるかのような誤認を与えて紹介していることは大きな問題だと思われます。松右衛門帆は北前船や菱垣廻船などといった荒海を航海する千石船に多く使用されたようです。しかしその便利さは、千石船だけでなく河川の運搬に使用された高瀬舟や、琵琶湖の丸子船の帆にも工夫され、応用されました。その後者の船の帆は、荒れる日本海と比べて穏やかな内海で使用されるため、北前船などで使われる太い糸を使う必要はありません。だから帆に使用する糸の太さや重要部分の織り方が本来の松右衛門帆と全く違います。見学者には正直に、もっと正しく歴史的事実を元に説明すべきでしょう。

高砂市、及びこの“工樂松右衛門旧宅”を運営している人達がどれだけ工樂松右衛門が開発した帆布を丁寧に調べ、顕彰しているのか甚だ疑問に思えます。

[正しい松右衛門帆については松右衛門帆の特徴で詳しく説明しています。ご参照ください。]