工楽松右衛門が暮らした旧宅 公式サイト

工樂松右衛門が晩年に暮らした旧宅
〜工樂松右衛門一世から三世の暮した家ですが、今の公開後の姿は・・・〜

工樂松右衛門旧宅が改修されて一般公開され、早くも6ヶ月を過ぎてはいますが、中身の展示物に工楽松右衛門とは全く関係なく、意味のないものが間に合わせで多く展示されているところが気になります。工楽松右衛門とは関係ない品や工楽家にあった備品のごく一部を脈略もなく無造作に並べてあるだけで、少なからぬ見学者から不平の声を聞きます。

工樂松右衛門旧宅は現存する子孫から高砂市に寄付され、建築後250年以上になると推定される建物が約1年をかけて復元、改修されて平成30年6月に一般に公開されました。こうした古い建物が改修されて工樂松右衛門の業績が後世に残され、江戸時代における海運の発展に大きく貢献した工樂松右衛門の遺産や江戸後期から明治、大正、昭和にかけての事業に関わる古文書や、工樂家の生活と工樂家に伝わる多くの古い家具、装飾品、美術品など、五千点以上に及ぶ遺産が早く整理されて、正しい説明と紹介を添えて系統的に見学者に紹介するのが、関係者の責務でしょう。そうした日が近いことを期待します。

現在改修された建物は、往時の傷んだ建物と内外装が一応きれいに修復されてはいますが、別の側面、即ち昔の工樂松右衛門旧宅に備わっていた重厚な雰囲気が殆ど感じられないのが至極残念です。棟方志功が初めて工楽家を尋ねたときの印象が、次のように彼の自叙伝『板極道』に記されています。「工樂家では、むかし船宿もしていまして、殿様お宿の大きな看板が十七、八枚も残っています。・・・(中略)・・・高砂の工樂家に着いて驚きました。豪壮な、真っ黒な、覆い被さってくるような大きな邸構えでした。本瓦葺きの関西流の建築は、工樂家の由緒を語っていたのでした。」

それもそのはず、この家の改修に際して、市役所の関係者、設計を担当した人達の誰一人、工樂家の子孫に丁寧に話を聞いたり、往時の家の各部屋の間取りと、それらがどのように使用されていたかといった詳しい聞き取りは全くなく、推測で進められたのではないかと思われます。だから、往時の立派な家の生きた雰囲気、使い勝手をよくご存じの数少ない人達から残念がられています。

一世松右衛門以降先祖代々の位牌があった仏壇 写真
一世松右衛門以降先祖代々の
位牌があった仏壇

特に、現在工樂家旧宅の公開と共に展示されている品々には、工樂松右衛門と無関係なものが少なくありません。松右衛門帆を創製した工樂松右衛門一世以下の先祖を祀っていた仏間に、わざわざその仏壇を廃棄して、代わりに正しくない「松右衛門帆」を展示して見学者に誤った知識を紹介していることは、「工樂松右衛門旧宅」の公式公開として大きな疑問が残ります。

さらに工樂松右衛門関係の唯一古文書らしきものの複写がわざわざ2階の奥まった使用人部屋(戦後まで女中部屋と呼ばれていました)の押し入れの中にさりげなく置いてあります。しかし見学者が最初に注目する1階の目立つ場所には、“懐かしい昭和の本”コーナーを設けて戦後の週刊誌、「プレイボーイ」、「平凡」、「少女フレンド」、「ジャンプ」など工樂松右衛門と全く関係ない昭和の雑誌が展示されています。そのような松右衛門の品位を落とす昭和の世俗的な週刊誌より、工樂家に残っていた江戸時代の庶民が楽しんでみていた観光名所案内や学校教科書、明治期の少年少女画帳などを陳列して子供達の歴史、社会教育の見本として並べた方が、より教育委員会の仕事として意味あるのではないでしょうか?下の写真は、工樂家に残っているそれら古い本の一部です。

名勝播州別府住吉の図 写真
名勝播州別府住吉の図

明治39年少年画帳 少年学校遊戯 写真
明治39年少年画帳 少年学校遊戯

建物については、工樂家四世以降、幾度か改築が繰りかえされていますが、古い家を時代に合わせ、生活になじむよう改修されてきた経緯を調べ、それを残して今の人達に示すことも大事なことではないでしょうか。使用木材もできるだけ元に使われていた素材に合わせ、丁寧な保存、改修が重要と思われます。特に2階部分は昭和3年頃に改築され、1階の座敷の上部分に洋風のベランダが、そして階段を上がった真正面の部屋は約10畳近い洋間になりました。この洋間は、改修した六世工樂松右衛門、長三郎が現在改修されている白壁の単調な洋間とは全く違う、芹沢銈介自作の板締染で、和紙に染色した壁紙を貼った、非常に品のある民芸風の応接間に改築したのです。以下の写真はその昔の部屋ですが、現在の部屋にその面影は全くありません。

2階応接間 写真
2階応接間

この応接間には、棟方志功の版画の掛け軸、河井寛次郎、浜田庄司らの作品などを多く蒐集して並べていました。
家具は、ビクトリア時代のイングランド製、イタリア製、そして大きな丹波焼きの壺を火鉢代わりにして、それは何とも雰囲気の良い部屋でした。

応接間で愛用の骨董品を愛でる六世、長三郎 写真
応接間で愛用の骨董品を愛でる六世、長三郎

この部屋で、長三郎は造詣の深い、焼き物をはじめとする民芸作品を蒐集して並べてよく読書をしたり、棟方志功、中村直勝、柳宗理(柳宗悦の長男)、宗玄(柳宗悦の次男)、淀川長治、竹友藻風(詩人で高砂小学校の校歌作詞)、寿岳文章など、芸術家や詩人、哲学者を招いて芸術談義に花を咲かせました。戦後にはバイオリニスト辻久子が高砂でのリサイタル時に工楽家で宿泊し、高砂の音楽愛好家達との懇談を行いました。昭和12年、工樂長三郎は高砂の俳画家相生垣秋津や中島瑞真、加古川の山本慎一、玉岡松一郎、粕谷武美、永田耕衣など郷土の芸術好きの人にも呼びかけて文化研究会“白泥会”を発足させました。

この応接間は、高砂のクラシック音楽愛好家によるバイオリン、チェロ、ピアノのクァルテットの練習場にも使用され、当時の鐘淵紡績の女工さんたちへの慰問のコンサートもよく行われました。

1階奥の床の間座敷では、棟方志功が多くの作品を制作しました。下の写真は高砂神社に奉納されている大きな鯤(鯉のさらに大きな魚)を描いている時のものです。奥様のチヤさんもご一緒に泊まられて、そばで工樂長三郎と共に志功の仕事をご覧になっています。右端の女の子は、長三郎の次女です。

ファンのサインに応じる辻久子 写真
ファンのサインに応じる
辻久子
座敷で鯉を描く棟方志功と見守るチヤ夫人、長三郎 写真
座敷で鯉を描く棟方志功と見守る
チヤ夫人、長三郎
2階応接間でのカルテットの練習 写真 2階応接間でのカルテットの練習 写真
2階応接間でのカルテットの練習
高砂高校講堂でのリサイタルを終えて、花束を手に工樂家座敷で関係者と談笑する辻久子 写真
高砂高校講堂でのリサイタルを終えて、花束を手に
工樂家座敷で関係者と談笑する辻久子

また座敷から望む小さな庭(前栽)には、棟方志功によると文化財級の灯籠を並べて、それはこの家の住人、主の高尚な眼識のレベルを大いに証明するものでした。棟方志功が感嘆し、好んだその灯籠は、今回の改築中に一部が所在不明になってしまいました。

座敷から望む前栽の、志功が喜んだ石灯籠 写真
座敷から望む前栽の、志功が喜んだ石灯籠

工樂松右衛門旧宅は、松右衛門一世が晩年の短い期間とはいえ住み、その後二世、三世と暮らした江戸時代後期の豪壮な民家の建物で、見学する意味は大きいでしょう。しかし単に家の構造だけではなく、明治時代以降にその子孫達が暮らし、松右衛門とは違う文化的雰囲気をもった、地方で芽生えた芸術・文化的活動の場所でもあったことも知ってほしいと思っています。今後もっと工樂家旧宅の、時代の移り変わりに伴った生活の変遷、歴史もわかる展示になるよう調査、研究が進んで生かされるよう望みたいものです。