• HOME
  • 工楽松右衛門公式サイト 高砂の築港と波止建設

高砂の築港と波止建設

享和元年(1801年)以降、髙砂湊の土砂の堆積は益々深刻化していた。百間蔵と言われた高砂の堀川筋に立ち並ぶ、姫路藩をはじめ加古川上流にあった一ツ橋ほか、他藩の年貢米を積出すことが出来なかった。そこで高砂湊の再興について兵庫津にいた松右衛門に対して高砂川方からの相談があった。その結果、高砂の川方達はその方法について松右衛門に一任した。

文化5年(1808年)、姫路藩は高砂の川浚普請に対して許可を出し、数年前には藩が髙砂湊の土砂堆積を除く工事は不可能としていた川浚普請を、工樂松右衛門という名工の協力を得、費用も全額半が負担するのでなく半額は高砂側で負担することでまとまった。

この高砂湊の普請で松右衛門は、まだ兵庫津の住人でありながら普請世話人であり、棟梁として働く。工事は文化5年に始まり、7年に完了する。その工事の完了をもって文化7年8月、兵庫から高砂の南本町に住まいを変え、人別替えをするが姫路家中として遇されていて高砂町人ではなかった。

松右衛門は河口の土砂の浚渫を行っただけでなく、加古川下流の所々を石垣で修理したり杭を打って土砂の流れを止めた。そして、髙砂湊の沖に石垣を組んで波止を築き、港の規模を広げた。その波止の上には家や蔵、港湾の機能に必要な鍛冶屋などが建てられるように広い波止道とした。波止道の先端には台場を作り、また、高灯籠を設けて船の出入りをしやすくする工夫をした。その当時の様子は、高砂の名所を描いた詩歌集「十二景詩歌」の挿絵「高砂秋景」にも描かれている。

文化時代の高砂港 写真

こうしたアイデアは、箱館港でも行った工事であり、それをそのまま高砂でも実行している。その波止道の東側河口の堤に「東風請」という波止を築き、それと直角に独立した波止、一文字波止を設けている。 これら三つの波止によって加古川河口の流れは整えられて新湊となり、船の係留も行えるようになった。この姿は現在も残り、美しい髙砂港として生かされ、利用されている。

工楽松右衛門築造の港湾 写真

松右衛門二世の川口普請

初代松右衛門のこの川竣普請後20年経った文政末年(1829年)ころ、再び土砂の堆積が進み、初代の作った波止の一部を除去するなどの動きが出てきた。しかし初代と同じく廻船問屋を営み、船頭の経験も豊富で、造船や修築の経験もあった松右衛門二世は、初代の波止を除去する必要は無く、また除去の困難を指摘して、東風請や、一文字の波止の嵩上げを行う提案をして修築し、各所で崩れた石垣を補修するなどして、高砂川口普請棟梁に任命されて修築をしている。

松右衛門三世の湛保造成

嘉永三年(1850年)4月に二代目松右衛門がなくなるが、跡を継いだ三代目松右衛門は、文久二年(1862年)、湊、川口の大浚えを行い、東風請を南に延長して波止を築き、北側に伸びていた土砂留めの北端を修復して延長その他堀浚えや土砂留めの修復や拡張等、様々の湊周辺施設の修復、造成も行っている。さらには工楽新田を作り、文久三年には加古川河口の西側と工楽新田の南に、東西45間、南北220間の湛保(船泊)を作るなど、松右衛門三代にわたって髙砂湊の修築、造成に携わっている。

工楽三世時代の高砂港 写真工松右衛門二世が修築した一文字堤と、三世が造成した湛保
(現在もカネカ高砂事業所の資材積み下ろし港として活用されている)

高砂港の波戸一文字 写真現在の高砂港の波戸石垣と、向こうに見える一文字堤